1998年2月11日号
亡命者との出会い

2月7日号で紹介した「コレンアン・ドライバーは、パリで眠らない」の著者の洪 世和氏は韓国からフランスへの亡命者です。 日本や韓国に住んでいますと、身近に亡命者がいないので、直接ではなく、本などでしか彼らの人間像をうかがい知ることができません。 しかし、アメリカに行くとかなりな数の亡命者に会うことができます。
今日の話は私が接したことがある亡命者との触れ合いを書きます。 但し、このような話は直接本人に確認しにくいので、正確には「亡命者」でなくて、「移住者」も含まれているかもしれませんが、 私が感じたところ「移住者」であるかもしれないが「亡命者」に近いと思われる3人を紹介します。


チェコ・スロバキアからのMM氏(53歳位)
’64年の東京五輪で、女子体操競技の名花「ベラ・チャスラフスカ選手」はたくさんの金メダルを獲得して故国チェコ・スロバキアに帰りました。 そのわずか2・3年後です。 社会主義独裁政府に対する民衆の不満が爆発し、連日のデモで政府が倒れ、しばしの民主化の風が吹いたのです (「プラハの春」と言う。 「ソウルの春」と言うのもありましたね)。 しかし、東側の盟主、ソ連はそれを許さず、戦車を投入し民主化を封殺してしまいました。 確か、チャスラフスカ選手も「民主化宣言文」の署名人の一人でした。

私の友人のMM氏は、当時、学生運動に参加しており、デモの指導者でした。 ある夜、家に帰ると、「不在中に警察が来た」と家族から言われ、その日のうちに荷物をまとめ、 翌日の早朝に国を出て来たそうです。

以来、30年経過し、今では全くのアメリカ人になっています。 彼の英語は故国の「ナマリ」がとれないのか、 大変聞き取りにくいのです。 ネイティブでない日本人だけが聞き取りにくいかと思っていたら、 彼の上司のアメリカ人女性が、「彼の英語が理解できるか? 私は良く判らない時がある」と、言ったのを聞いて安心しました。

彼の50歳の誕生日に、息子達がプレゼントをしました。 開けてみると、前から欲しいと思っていたスミス&ウエッソンのピストルでした。 私が「何故、ピストルが欲しかったのか?」と聞いたら、休日に4駆のトラックで山に入り、 ハイキングするのが好きだ。 その時、野生動物からの護身用として持っていたいた方がいい、とのことでした。 「アメリカ人だなぁー」と、思いました。

ベトナムからのD.トラン氏(35歳位)
同じ東洋人だからでしょうか、仕事以外でもよく話しかけてきました。 私の名刺は英語と日本語の両面印刷です。 彼は、日本語の面を見ながら、「私の名字のトランは漢字で書くと、 《陳》ですと」と言った。 私はベトナム人で漢字で使うことは知らなかったので、「ええーー。 昔は漢字を使っていたの?」 と聞いたら、「今では使いませんが、一部の人は名前くらいは書けます」とのことでした。

ボート・ピープルとして逃げてきたのかどうかは聞くことができませんでした。 私は日本に帰ってから彼の名刺を漢字で作って送ってあげたら、丁重な礼状が来ました。

キューバからのJG氏(50歳位)
彼は会社ではかなり高い地位についている人です。 私が台湾にいるときに彼も台湾へ出張でやってきました。 台湾人が歓迎会を開催し、二次会はカラオケに行きました。 中国語や英語の歌を一通り歌った後、台湾人がJG氏の故郷の歌を皆で歌おうと言って、 有名なラテン音楽である「ガンタラメラ」をリクエストしました。 歌い終わった後に、私は「ガンタラメラとはどういう意味ですか?」と尋ねたら、「美しい人妻」と答えてくれました。 このような陽気なラテン音楽が生まれる国で、かっては革命、暴動、亡命などの出来事があったのが感慨深いです。

彼は幼いころにアメリカに来たせいでしょうか、本当に奇麗な英語を話します。 学校でキチッと習った英語なのでしょう。


会ったわけではないですが、パソコンの頭脳、マイクロCPUの王者、Intel社の会長兼社長のアンドリュー・グルーブ氏がハンガリーからの亡命者だと言うことは良く知られています。 「プラハの春」のもっと前にハンガリーでも同じようなことが起こりました。 ソ連の戦車が走り回るブダペストから、雪のアルプス山脈を、軍用犬に追われながら国を捨てた青年が、40年前の彼です。 現在、「世界中のパソコン産業は彼の手に握られている」と、言っても過言ではないでしょう。

「野望と才能さえあれば成功することができる」アメリカと言う国の懐の深さを本当に感じますね。


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