2月7日号で紹介した「コレンアン・ドライバーは、パリで眠らない」の著者の洪 世和氏は韓国からフランスへの亡命者です。
日本や韓国に住んでいますと、身近に亡命者がいないので、直接ではなく、本などでしか彼らの人間像をうかがい知ることができません。
しかし、アメリカに行くとかなりな数の亡命者に会うことができます。
今日の話は私が接したことがある亡命者との触れ合いを書きます。
但し、このような話は直接本人に確認しにくいので、正確には「亡命者」でなくて、「移住者」も含まれているかもしれませんが、
私が感じたところ「移住者」であるかもしれないが「亡命者」に近いと思われる3人を紹介します。
私の友人のMM氏は、当時、学生運動に参加しており、デモの指導者でした。 ある夜、家に帰ると、「不在中に警察が来た」と家族から言われ、その日のうちに荷物をまとめ、 翌日の早朝に国を出て来たそうです。
以来、30年経過し、今では全くのアメリカ人になっています。 彼の英語は故国の「ナマリ」がとれないのか、 大変聞き取りにくいのです。 ネイティブでない日本人だけが聞き取りにくいかと思っていたら、 彼の上司のアメリカ人女性が、「彼の英語が理解できるか? 私は良く判らない時がある」と、言ったのを聞いて安心しました。
彼の50歳の誕生日に、息子達がプレゼントをしました。 開けてみると、前から欲しいと思っていたスミス&ウエッソンのピストルでした。 私が「何故、ピストルが欲しかったのか?」と聞いたら、休日に4駆のトラックで山に入り、 ハイキングするのが好きだ。 その時、野生動物からの護身用として持っていたいた方がいい、とのことでした。 「アメリカ人だなぁー」と、思いました。
ボート・ピープルとして逃げてきたのかどうかは聞くことができませんでした。 私は日本に帰ってから彼の名刺を漢字で作って送ってあげたら、丁重な礼状が来ました。
彼は幼いころにアメリカに来たせいでしょうか、本当に奇麗な英語を話します。 学校でキチッと習った英語なのでしょう。
会ったわけではないですが、パソコンの頭脳、マイクロCPUの王者、Intel社の会長兼社長のアンドリュー・グルーブ氏がハンガリーからの亡命者だと言うことは良く知られています。 「プラハの春」のもっと前にハンガリーでも同じようなことが起こりました。 ソ連の戦車が走り回るブダペストから、雪のアルプス山脈を、軍用犬に追われながら国を捨てた青年が、40年前の彼です。 現在、「世界中のパソコン産業は彼の手に握られている」と、言っても過言ではないでしょう。
「野望と才能さえあれば成功することができる」アメリカと言う国の懐の深さを本当に感じますね。