1998年1月27日号
戦前の朝鮮、ある日本人の思いで

正月休みに妻の実家に行き、両親に会ってきました。 私の妻の兄は現在、仁川の新国際空港建設のために日本の建築会社から派遣されて駐在していますし、 私もソウル駐在で、韓国とは縁が深い一家になってしまいました。

岳父は現在85歳で、一生涯、陶磁器の商人として働いてきた人です。 資源のない日本にとって当時でも輸出は重要で、繊維製品、陶磁器は主力輸出品目だったのです。 現在の、自動車、電気製品、産業機械の輸出とは違い、それほどハイテクでなく、もっぱら安い人件費を武器にした製品の輸出に懸命だったようです。 岳父は当時、陶磁器を中国や朝鮮に輸出する仕事をしていたのです。 朝鮮には3回、出張したことがあるそうで、当時の思いでを聞きましたので、報告します。



妻の実家にはこの話をするために行ったわけではないので、深い内容ではありませんが、 この時代の若い人(岳父も当時は20歳代前半のはず)は飛行機なしで朝鮮、満州へ出て行くことが当たり前だったような雰囲気が感じられます。

当時は高速船もなかったので関釜連絡船に乗り、釜山からSLに牽引された「アカツキ号」で北に向かったのでしょうか。 現在の感覚では、「出張が三回」と聞くと”大したことない”と思えますが、 当時は一回の出張で3週間から4週間はかかったのではないでしょうか。 聞き漏らしてしまいました。

岳父は懐かしいのか、図書館で中国、韓国関係の本を借りて今でもよく読んでいるそうです。


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