平 成 1 0 年 6 月 2 8 日
天理 台湾学会 第8回 研究大会
研究発表
戦時動員の台湾少年工について
保 坂 治 男
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T 研究の動機
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神森川県大和市・柳橋小学校に勤務中、児童より「わたしたちの街に台湾少年のお墓があるのはなぜか?」と問われ、自分も無知であることから、興味をもって調べだした。
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U 研究経過
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1992(平成4)年 9月 |
児童より質問を受け、研究開始 |
1992(平成4)年11月 |
台湾実地調査・検証 |
1993(平成5)年 2月 |
6年生全員対象に授業(公開) |
1993(平成5)年12月 |
「台湾少年工・望郷のハンマー」を、ゆい書房より出版 |
1994(平成6)年10月 |
台湾留日高座同学聯誼大会出席 |
1995(平成7)年 1月 |
台湾少年工の歴史を平和と友好につなぐ会結成。 交流・実残活動 |
1997(平成9)年11月 |
聯誼大会(新海)にて表彰さる |
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V 少年工募集をめぐる状況
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太平洋戦争の局面が本土防衛になってきた。 局地戦闘機の生産が急務となり、神奈川県高座郡に海軍工廠が設立された。
労働力は海外植民地に求めざるをえなかった。 当時、台湾は皇民化教育が浸透、少年たちは祖国防衛に奮起した。
教師がすすめる高学歴取得、家計を助けることにも魅力があった。
採用試験は1割の合格率で厳しかった。 1万人以上が採用されたが、輸送が危険となり、本土に渡ったのは8000人ほどだった。
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W 戦時下の台湾少年工
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少年工たちの来日は軍事機密下におかれたため、上陸した横浜をはじめ各地の人々に奇異な眼でみられることが多かった。
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戦争の激化に伴い初期訓練は短縮され、ついには無くなった。
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能力格差以上の給料差別はなかったようである。
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名古屋の三菱重工、群馬の中島飛行機等、全国に派遣された。
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通年、5時半起床。22時 消灯。
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食料事情は悪く、しらみ取りの日常だった.
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軍隊生活に準じた暮らし方だった。
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航空機生産台数は、ほとんど不明。
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戦争末期は、地下工場での仕事が主となる.
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多くの栄養失調症・心身症を含む戦死傷者を出したが、確実な数はつかまれていない。
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X 戦後の台湾少年工
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終戦直後は、虚脱と自暴自棄状態が起きたが、すぐ自治組織をもつ。
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自治会として、帰還船の折衝をする。氷川丸など。(司馬逢太郎「台湾紀行」李登輝さんの項・参照)
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帰台したが・・・・・学校、就職、ことば、国民党独裁、やがて戒厳令下の・・・・・生活に苦しむ。
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Y 今後の研究課題
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台湾少年工についての正確な事実関係を把握し、知らせ、相互理解を深めること。
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情報公開。 官庁の壁をくずす。「今だから言う」の促進拡大。
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Z 参考文献・資料
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1. |
加藤邦彦 |
「一視同仁の果て」 |
2. |
早川金次 |
「流星」 |
3. |
かつおきんや |
「緑の島はるかに」 |
4. |
大和市 |
「大和市史」 |
5. |
陳碧奎ほか |
「台湾少年工写真帖」 |
6. |
保坂治男 |
「望郷のハンマー」 |
7. |
伊藤潔 |
「台湾〜」 |