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霧社公学校跡(現 台湾電力 濁水渓電力保護センター)で説明する、霧社事件の生残り、タイヤル族の高徳永さん(中央白髪の人、事件当時7歳だった)。
1930年10月27日(日曜日)、運動会に集まった日本人134名と、 和服を着ていたために日本人と間違えられた台湾人2名の合計136名がタイヤル族の決起により、この地で襲われ絶命した。 高さんは、事件後、日本軍警の追跡を避け、母親に連れられ約2ヶ月間、山の中で逃亡生活をおくったとのこと。 |
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決起したタイヤル族酋長「モーナルドウ」の銅像。 左後方はその墓。
彼の遺骨は長い間、行方不明であった。 戦後、台湾大学医学部に原住民の骨格標本として保管されていたのが発見され、この地に埋葬された。 |
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霧社公学校に向かって左手約100mの小高い所に、犠牲となった日本人の慰霊塔が建てられていた。 戦後、壊され、現在は基礎部分がわずかに残っているのみ。
写真は高さん提供(大きく引きのばした写真をカメラで接写した)。 撮影年月は1950年頃? |
- 高さんの言葉
- 当時、私は7歳であったが、後に聞いた話によると、事件の大きな原因は次の二つのようである。
- 材木の切り出しなどで働くことが多かったが、台湾人(漢人)と原住民で給料に差があった。 差額は日本人が着服していたのではないかと恨んでいた。
- 日本人が原住民の女性にイタズラすることが多かった。
私が、当時20歳くらいであったなら、こんな事件は止めさせたと思う。 このくらいの原因なら話し合いで充分解決できるはずである。
私は成長後、警手(警察の下働きのような仕事)に雇われ、その後、警察官に昇格した。 公学校では、正規の日本人教師の他に警察官も先生となって教えていたので、私も生徒を教えた。
日本人教師の中には、学校に出てこない生徒がいたら、家まで迎えに行き、子どもを背負って学校まで連れてくるような熱心な日本人教師もいた。 一方、私はタイヤルの言葉と日本語の両方が話せるので、どうしても私の方が生徒の学習効果が早く、ヤッカミから意地悪する日本人教師もいた。霧社事件の日本人慰霊塔は戦後、しばらくは存在していたが、いつの間にか破壊されてしまった。 このような歴史的なものを無くしてしまったのは残念である。 歴史として正しく認識し、将来の日本と台湾の友好のためにも残しておいた方がよかったと思う。
私は警察官という仕事上、いろいろな言葉をしゃべる必要があり、また、戦後、北京語も覚えたので、今では五つの言葉がはなせるようになった。 タイヤルの言葉、もう一つの原住民の言葉、台湾語、北京語、日本語である。 おかげで、いろいろな人々と接触することができ、それぞれの考え方を理解しあうことの重要性がわかった。
また、台湾原住民は文字を持たなかったために、大きく遅れてしまっていたことがわかった。 文字を持つことと、教育の大切さを身をもって感じることができた。私は戦後、南投県の県議会議員になり(原住民のための議員枠がある)。 原住民の生活向上にもつくしてきた。 最近は日本人訪問者も増えてきたので、霧社のことを伝えていきたいと思っている。