息子を生かして返せ! と泣いた母さん(アブー)がいました・・・・・。

台湾少年工について


T −高座【現・大和・座間・綾瀬地域】海軍工廠に来た台湾の少年たち−
保坂 治男
  
 
 太平洋戦争の勝敗の鍵をにぎる航空機の生産拠点として、高座海軍工廠が本格的な準備に入ったのは、1942年【昭和17】年9月、海軍航空技術廠【横須賀】内に「空C廠設立準備事務所」が設けられてからでした。
 しかし、当時、建物はできても、男性のほとんどが前線に出はらっていた日本国内で、働く工員を十分に集めることができませんでした。
 そこで、海軍当局は必要な工員の半数以上を台湾の青少年で補充することにし、12月1日から台湾で採用試験を実施しました。
 その選考状況を台湾で実際に見て、帰ってきた大羽技師は本多海軍大佐に、12月10日までの結果を、総志願者数・5345名、そのうち採用者・3053名【内1558名は小学校卒業予定者】と報告しています。

 

U 台湾の教え子たち
宮本直人【大正8年生まれ。熊本県立中学、台南師範学校卒。高雄州・旗山第一国民学校教員。
召集され台湾軍入隊。戦後、熊本市立城東小勤務。近著「台湾を愛す」】

 
 日本統治下の台湾教育とは何だったのだろうかと今なお考え続けています。  
 統治政策の基本は「台湾人を日本人に同化すること」、言葉・生活習慣・民族行事・姓名まで根こそぎ日本人風に仕立て変えることでした。  
 昭和17年、私は高等科担任になりました。公学校【小学校】6年間の義務教育を終えて、入学試験に合格した男70名、女5名のマンモス学級でした。
 当時、台湾の子どもたちの進学は日本人との差別があり、施設もありませんでした。私は教師歴4年目、22歳でしたが、この生徒たちは選抜された粒ぞろいで、私の若さと弱さを補ってくれました。
 この頃、台湾では、志願兵制度が徴兵制になるのは時間の問題でした。生徒たちにひたひたと戦争への動員態勢が押し寄せていたのでした。空C廠から軍需用の工員募集の知らせが来たのもこのときでした。
 日本内地の労働力不足を補うために、優秀な台湾青少年を求めて工員募集が来たのです。すでに第一回として、1943【昭和18】年4月に、数千人の15歳に満たない子どもたちを空C廠に送り込んでいました。
 私の教え子たちは、第二回目の標的になりました。
 応募者の特典として、3年勤務すれば、高等科卒業者は工業学校卒業者、中学卒業者は高等工業学校卒業者になれる。働きながら学べるし、賃金がもらえて資格も取れるというのですから、進学が困難だった台湾の優秀な少年たちは試験に殺到しました。
 合格した私の生徒は13名。台湾全島からの合格者たち四千数百名とともに1944【昭和19】年4月、基隆から浅間丸に乗船、アメリカ潜水艦の攻撃を避けて東シナ海を逃げ回りながら、神戸港に上陸。汽車にゆられて一昼夜、大和駅着、高座海軍工廠の寄宿舎に入舎したのでした。
 日本は50年間、台湾を植民地とし、主権・土地・物資・言語・姓名までも日本に従属させました。皇民化教育が叫ばれ、私はそのお先棒をかつがされた青年教師でした。私のおそまきながらの懺悔をくみ取っていただければ幸いです。
1998年11月記



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