高座海軍工廠志願の理由 
 
何春樹
  台湾高座聯誼会副会長
  台中地区高座会会長
  元国会議員
  現台中信用組合顧問


  1943(昭和18)年といえば、すでに日台航路の商船も撃沈され、敗戦の兆しが現れている危ない時でした。そんな危ない日本になんで志願して来たのでしようか?  大きく分けて二つの原因・理由があったと思われます。

[1] 外来的原因・・・・・先生の推薦と激励です。
 当時、先生はおやじよりも尊敬され、こわい存在でした。成績のよい生徒は先生から志願を勧告されると、逆らうことは まずむずかしいことでした。 先生は強制はしません。 けれど私達はとにかく先生の言うとおりにすることが生徒の本分だと心得ていました。

 
[2]自発的原因・・・・・家が貧しく、中学へ行きたくても進学できない子がたくさんい ました。
   私の父は台中市にある製糖会社の鉄道工員でした。毎月30円足らずの賃金で、6人の子どもを抱える8人家族を養わなければなりません。  母は豚や鶏を飼い、野菜を植えて懸命に家計を支えていましたが、かろうじて3食出せるだけの貧乏な暮らしでした。  
   私は小さいときから勉強ができました。 5、6年になると、生徒長を令じられ、毎朝、朝会で全校2000名近くの生徒lこ、「天皇陛下に対し奉り、最敬礼」と号令し宮城遥拝をしました。  6年2、3学期になると先生の特別補習[受験勉強]がありますが、私は補習教育費も中学の授業料も出せ主せん。  恩師帯刀先生(大分県人)が、無料で補習に参加させてくださり、親に「この子はきっと合格するんだから。」と相談に来てくだきいました。  が、両親は涙をのんで先生の薦めを断りました。
   中学のかわりに、国民学校【小学技】の高等科に入り、2年1学期の時、海軍要員募集が来たのです。 国のために働いて給料がもらえ、工業学校と何等の資格がとれる!  こんなチヤンスをのがしてなるものかと、母にしがみつき、涙ぐむ両親を説得して、志願書に父のはんこをやっと押してもらったのでした。
 


故郷を後に

 
彭炳耀 
  新竹市    

    1944(昭和19年)4月2日の夜10時ごろ、私と兄姉は灯火管制でうす暗い新竹駅前に着いた。
    「少年工の合格者全員集合。 学校ごとに一列縦隊 !」責任者が懐中電灯で名前を読み上げる。百名を越しているようだった。

「内地【日本】ほ寒いから服を厚く着てね。 食べ物こ気を付けて、お守り袋はいつも身につけているのよ。 元気で帰ってくるのよ。」 姉さん涙声で注意を繰り返す。  
    背中に手製のリュックサック、片手にトランクを下げて、兄姉や友達が見えなくなるまで手を振りながらホームに入つた。 11時23分、汽笛とともに汽車は街を出た.  
    翌朝、岡山駅(台湾)着。 軍隊用のトラックで兵舎に運ばれた。
  4月8日、高雄港からアラビア丸で出航。 陸軍の兵隊もたくさん乗つているし、物資もたくきん積み込まれていた。
 
    少年工は船底の倉庫用の場所だった。 畳一枚に3,4人が寝るのだ。 みんなすわって前かがみになり膝をかかえて寝る。 蒸し見呂のような暑さで、風は全然入ってこない。 眠れずに息痴をこばす者、さめざめと泣く者.「親に逆らった罰だ.」といつて後海する者もいた。
    汗でぐしよ濡れの服、船の錆と油がまじって、何ともいえないにおいがたつ。 少年工の大部分の顔が青白くなる。桶に行って吐く。 寝たまま床に吐く者もいた。
    「船員が甘い紅茶を売っている」と誰かが教えてくれた。 市価より何倍も高い。 我々の弱みにつけ込んだ悪徳商法だとわかったが、少年工は買いにいくほかなかった。  

    4月23日、高座海軍工廠に入廠、新竹北門小学校の30数名は4舎4寮の14号室と15号室に分かれて住むことになつた。  
    経験したことのない寒い4月、なのに 薄い敷き布団1枚と掛け布団代用の毛布2,3枚だったから、暖房装置のない部屋で塞くて寝付かれなかった。
 
    すぐ病気になつた。腹をこわして下痢が続いた。めまいがした。しかし、病身のぽくにも厳しい軍規の仕事の割りあてがあった。 甲板(廊下)掃除・食器洗い・部屋の整頓・便所掃除(20日おき)である。
 


 徒手空拳の日々

 
陳碧奎 
  1927年、雲林県生。
  父の目をかすめて印鑑を押し、
  少年工志願。
  「台湾少年工写真帖」編集者 


  1943(昭和18)年9月13日、私達4期生は神奈川県大和市上草柳の海軍空C廠こ到着。
    101寮8号室に入り、私は室長に任命された。  5:30起床。 布団をたたみ洗顔、作業服にゲートルをつけ、6:00朝礼。 朝食の後、7:00に整列、労働実習場に4列縦隊で向かう。

    タガネー丁とハンマーー本渡され、5人で一つの長鼻机、机には万力が備えられ厚い鉄板が挟まれている。 指導員が前に立ち笛を「ピッ」と鳴らすと、力いっぱい鉄板めがけてハンマーを打ち付ける。 「ピッ」が遅くなれば遅く打ち、早くなれば早く打つ。  初めは有れなくて、ハンマーで親指を叩いてしまい血を流した。
    作業中は休んで薬を貼ることが肝されないので、「ピッ」の鳴り続ける間は悲惨だった。 退勤時間には指が痛く腫れ上がっていた。  

    毎週2回は早朝の軍事教練。 駆け足から始まって腕立て伏せ、柔較体操と続く。 冬は霜柱の上を背中で汗が流れるまで走った。  最初の半年は、台湾で先生が言っていたとおり、半工半読だった。
    授業は国語・公民・機械・数学・飛行機製造概略など。 教師陣は定年を迎えた中学の校長、東京女子大の田中教授、軍人もまざっていた。  

    4ヶ月後、新しい工場で飛行機製造の実習に移った。 実習過程で、機械・胴体・組立・仕上げ・溶接などの専門技術のの試験をパスしなければならない。  私は溶接工なので実習では溶接を主にやった。  軍事教練と鉄板加工がなくなり、実習が始まると少し時間的に余裕ができたので、私は通信教育で 「高等文官養成科」を独学し始めた。  

    高座工廠が私達に与えた身分証明書には「工員」とだけ記入され、支給されるのは工員服と工員帽だけで、学生服や学生帽などはなかった。 だまされたことがだんだん明白となり、自分から勉強しなければ上級の資格は取れないと思った。 暇を見つけては自学自習した。  

    夏は蚤や蚊、冬はシラミに悩まされた。シラミは服の縫い目に隠れていて、夜寝るときに一斉に這い出してくる。   体中を噛みまくり、かゆいことかゆいこと。 食事後と睡眠前は衣服を脱ぐので、ついでにシラミ退治をする。 いくら散っても取りきれないので、服を浴室に持っていって熱い湯につける。 しかし、3,4日しないうちにごっそりとまた出てくるのだ。  

    1944年3月、私達は高座から名古屋の三菱重工業へ派遣された。  

    ある月の明るい夜、一人で正門を出て産業大通りの横の大きな貯木地で浮かんでいた木材の上をぴょんぴょん渡り歩いて孤独を紛らわしていた。  征服の青年学生(二十歳そこそこにみえた)が二人来て、私が休も小さく幼いのを見て取ったのか、「馬鹿野郎」とか「支那野郎」とかののしった。 侮辱された怒りで思わずとびかかっていった。
    一人が木刀を持ち出して私の左顎を強打した。 口中が血だらけになつた。どうやら宿舎にたどりついたのだが、その二人は宿舎の事務室にまで追いかけ、乗り込んできた。   寮にいた友人は私が傷を負って来たのをみると、興奮して棍棒を持ち、大声で叫びながら二人を取り囲んだ。
    舎監が懸命になだめてくれたおかげで、その場は収まった。  翌日、田中舎監は私を連れて三菱重工業の社長のところに行った。 社長さんは誠意をこめて私に謝り、部下に私を病院まで送らせてくれた。


  空襲下の命の恩人

 
柯永遠 
  台湾留日高座聯誼会 
  嘉義地区総幹事
 
    ぽくは、昭和19年5月、高座海軍工廠・台湾少年工の6期生として神奈川県に来ました。 そして6月には、名古屋三菱重工業に派遣されました。  

    12月18日、ぽくたちがほかの動員学徒や女子挺身隊と食堂で昼食をとっている時、敵機来襲。   あわてて外に飛び出し、避難する防空壕を捜しながら走りました。 工場の外に出ようとすると、「外だって危ないぞ!」と門衛に追い返されました。  

    ぼくは学徒動員の三輪さんといっしよに、血眼で走っていました。 すると突然、防空壕の中から一人の女子挺身隊員が飛び出してきて、「危ない!お姉さんの防空壕に入りなさい!」と叫んで、ぼくの手を引っ張り、防空壕の中に飛び込ませてくれました。  
    その時、近くで破裂した爆弾の破片が三輪さんに突き刺さりました。 三輪さんから腸がはみ出し、血がドッと吹き出しました。 三輪さんは手で腹を押さえて立ち上がろうとしました。 ぼくは思わず防空壕から飛び出していって三輪さんの体をかかえました。  三輪さんは、まさおな顔で何か言うように□をガプガプさせたかと思うと、コクリと頭を垂れて息をしなくなりました。  

   防空壕の中でこのようすを見ていたさっきの女子挺身隊員が、「あんたも危ない! ここに戻って! 早く! 早く!」と、けたたましく叫びました。 無我夢中でぽくは防空壕の中に逃げ込みました。  
    爆弾が続けざまに落下し、みるみる工事が破壊されていきました。 (三輪さんのように死ぬんだ)と思うと、体じゆうがガタガタ震えてきて止まりません。   すると挺身隊のお姉さんが、やにわにぼくをきつく抱きしめ、まるで弟をかばう姉のように優しく、「大丈夫・・・安心して。」と慰め、励ましてくれました。  

    午後4時半ころ、やっと警戒警報が解除になりました。 二人で防空壕を這い出し、周囲を見渡しました。  工場はつぶれ、鉄筋の柱に人の肉やはらわたがくっつき、地面には手や足、頭、胴体、がバラバラに散乱し、今思い出してもゾッとする光景でした。

    夜は床にごろ寝でしたが、少しも眠れませんでした。  500余人の死傷者が出たうち、高座の少年たちは32人が戦没。 翌日に、跡形もなくなっている防空壕の前で、みんな涙を流して、「殉職の碑」と書いた板碑を建て、友の冥福を祈りました。  

    ぼくは危機一髪のところで命を拾いました。 この日本のお姉さんが、ぼくを生き延びさせてくれたおかげで、台湾に帰ることもできたのです。  今年69才。 一年一年 年を重ねるごとにこのことが重々しく思い出されて、このお姉さんの消息が知れたら、何としてでもご恩返しをしたい気持ちでいっぱいです。
 

                           【1998.8、7記】



 
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