「日台親和」の虚像と実像

------植民地支配の歴史経験は国際協力のモデルか-----

義麟   

  1994年の司馬遼太郎との対談で、李登輝は「台湾人に生まれた悲哀」をはじめて公言した。この発言は一方で台湾住民の台湾人としてのアイデンティティの確立につながったが、他方で李登輝前総統と同世代の台湾人の親日態度をめぐって国内外で一大論争を巻き起こし、それを契機に日本のいわゆる「親台派」と台湾の「親日派」(野蛮な中国より日本は昔も今も立派な国だという歴史認識を持つ年配の台湾人を指す)が急速に台頭するようになった。国民政府こそが「台湾人に生まれた悲哀」をもたらしたのだと親日派台湾人が唱えると、親台派の日本人は台湾人の幸福・安全を守ろうそれに唱和するようになった。そして、ついには日本と台湾を軍事同盟国として「命の絆」で結ばせようというスローガンまで言い出すようになっている(『SAPIO』2000年6月28日号)。この小論では彼ら親台派と親日派が如何に日本の台湾植民地支配の歴史を使って日台親和のムードを高めようとしているかを少し分析してみたい。

  今年5月4日、台南で日本土木技師の「八田與一逝去58周年記念式典」および「八田與一技師研究会」というを会合が開かれた。式典は日本植民地統治時代に台湾南部の烏山頭ダムを築造した日本土木技師八田與一の功績を記念するために、財団法人現代文化基金会と嘉南水利会が共同で主催し、台南県と台南市、新聞社やテレビ局が協賛した大型の記念行事であった。石川県の八田の親族など多くの日本人が参加して午前中は烏山頭ダム公園で記念式典を催し、午後からは八田技師の事跡や功績を顕彰するシンポジウムが行なわれた。今回の記念活動では新たに八田與一記念館の建設および八田氏の胸像の完成が発表されたことも注目に値する。今後、あるいは台湾側が台日の友好関係を強調する必要があれば、この日本では知られていない技術者が台湾の歴史教科書に登場する可能性もありそうだ。

  八田與一は1886年に日本の石川県で生まれ、東京帝大土木工業科を出て1910年に台湾総督府土木課に就職して来台し、その後嘉南平野の農業水利開発の仕事を任された。当時青年技師の八田は柔軟な発想で大規模な潅漑工事である「」(1万6千キロメートルに及ぶ給排水路と烏山頭ダムを総称してこう呼んだ)の建設を提案し、しかも自ら総責任者としてダム工事に取り組んだ。1920年に着工され、1930年に完成した水利工事は嘉南平野15万haの農地を潅漑する大事業であった。この水利開発は農業生産に役立つばかりでなく、雨季の洪水をも防止できると賞賛された。1930年のダム完成とともに、ダムのほとりに従業員に尊敬された八田の銅像が部下の手によって設置された。その後1942年、軍に徴用された八田はフィリピンの水利開発に赴く途中、乗船した大洋丸が米軍潜水艦に撃沈されて遭難した。八田夫人の外代樹は戦中烏山頭へ疎開していたが、日本が降伏文書に調印する直前の1945年8月31日、ダムの放水路に入水自殺した。翌年、ダムのほとりに八田夫婦の墓が地元農民の手によって建てられたが、八田の銅像は戦時中供出を避けるためにか一旦紛失し、その後も水利会の宿舎に保存されていた。1981年、政治情勢の変化により銅像がようやく元の場所に据え付けられるようになった。その一方で戦後から今日に至るまで、嘉南農田水利会は毎年5月8日の八田技師の命日にダム公園で祭典を挙行してきた。近年この記念式典は嘉南水利会の関係者以外の人にも注目され、年配の台湾人の「親日派」と、日本のいわゆる「親台派」の人々の交流の場へと発展してきた。そうして今年の記念館と胸像の完成にいたったのである。

  この記念行事の日本側からの参加者のなかで、もっとも注目すべきは「自由主義史観研究会」のメンバーたちであろう。八田技師のような人物は、「植民地で日本は良いこともした」という彼らの命題にとって恰好の実例であるため、わざわざ日本から取材に来る価値があるのだろう。これに対して主催者の台湾側も八田技師の物語を使って台湾人の親日ぶりをアピールしようと狙っているのだろう。このよう思いが交錯して今年の記念行事は盛況を見せた。

  盛大なシンポジウムの会場には多くの学者が駆け付け、報告者は長々と八田の主な功績を述べていた。その内容をまとめると、「」の完成によって、三重苦(洪水、干ばつ、塩害)の解消、農業技術の向上と三年輪作制の導入、地価の上昇、嘉南農民の生活の向上という四大成果があげられたという。また別の研究者によると、「」の建設には構想の雄大性、技術の先進性、給水法の合理性、従業員に対する人身掌握術の卓越性、国際協力としての模範性という五大特徴があるという。このような報告内容に対して、台南にある成功大学の歴史学科副教授陳梅卿氏(立教大学文学博士)はコメンテーターとして次のような意見を述べた。第一にこの水利建設のプラス面は事実だが、マイナス面はなぜ一つも提起しなかったか、たとえばダムや用水路の建設のために逐われた建設用地住民の移住問題、故郷を失う悲しみなども論じるべきだろう。第二に、実際には清朝時代から漢民族の農民の間にはすでに三年輪作の習慣があり、百以上の小規模の用水路組合も作られていた。漢民族の農耕知識を生かすことがなぜできなかったか、そして国家介入による用水路の統合でどのような変化が生まれたかという歴史的視点からの考察が欠けている。そして第三に、なぜ日本と台湾のいわゆる「内地と外地」との植民地支配関係を「国際協力の真の姿」と解釈できるのか、まったく納得できない。

  報告の中には確かに「八田技師の考え方は、今日の国際協力の原点にすえるべきと考える。国際協力の名の下に、自国の繁栄を図るとか、自社の利益のみを追求するようでは、真の国際協力とは言えない」と賞賛の言葉が述べられていたのだが、その研究者は陳氏の厳しい詰問にあって返答に苦しんでいた。陳氏のコメントにより会場の親和ムードが一変し、シンポジウム終了後陳氏への非難の声や態度があちこちで見聞きされた。しかし、シンポジウム会場やその後のパーティ会場でも、ひそかに賛意をあらわすために近寄ってきた人もいたよ、と陳氏は教えてくれた。

  実際に八田技師を顕彰する事跡の紹介をよく読めば、八田技師はそこが台湾であろうと日本であろうと関係なく技術者として自分の本分を完遂しようとする、自分の仕事に責任感(プロ意識)を持つ一人の技師にすぎず、民族やイデオロギーとは無縁の人だと思える。広く解釈しても、彼のまじめさ、勤勉さ、そして正直な人柄は台湾人がもっとも賞賛している代表的な日本人の性格であり、また現地の農民は功績のある日本人技師を今も偲んでいるのだといえるだろう。

  『台湾を愛した日本人---八田與一の生涯---』(青風図書、松山市:1989年)の著者、古川勝三氏によると、彼は1981年に八田技師の銅像をはじめて目にした。その時の感動は今も忘れることができないという。彼は一人の日本人技師が植民地台湾でこんなに敬愛されているということに感動し、これは近代史の大発見とする理解に結び付けようとしている。つまり近代日本はアジアで侵略戦争を行い、残虐な植民地支配をしてきたと教えられた日本人が、この歴史の常識を覆すような八田「物語」を聞いたら、間違いなく感動するだろうし、少しは民族の自信を回復することができるだろうという。これに対して、この「八田物語」に接した私たちは、むしろ台湾の素朴な農民が暗い時代の政治弾圧を恐れずに八田夫婦の墓を建て、八田技師の銅像を「保護」し、しかも長い間、毎年欠かさずこっそりと記念行事を行なってきたことに感動した。もし台湾の戦後史を知る人なら、地元農民たちの勇気を称えるだろう。戦後の国民政府統治下の台湾では日本語の出版物や、日本色の濃い遺跡物は公式命令でほとんどすべて廃棄処分にされた。日本に関係するものを保持していれば、いつ逮捕・監禁の災いが降りかかるか誰にも予測できなかった。そうしたなかで地方エリートと農民たちが政治的な圧力に屈せずに、民族や過去の支配・被支配の関係を問わず、地元に貢献した人には感謝の念を長い間持ちつづけた温情と勇気こそが、台湾史に書き込む一エピソードとしてもっとも意味があると思う。

  台湾および日本籍の知人と話してみると、日本人と台湾人とではそれぞれ八田物語の違うところに感動していることに気づく。このような微妙なズレを突っ込んで議論するつもりはなかったが、そこに現れている歴史の記憶と忘却の操作によって歴史認識を改変させることに警戒すべきだと強調したい。

  現在もっとも気になるのは、一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、「世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語」として、これを利用・紹介する動きである。台湾は朝鮮と同様に日本の植民地であったにもかかわらず、比較的親日的であるとよく言われるが、その対日感情の違いが生じた戦後の歴史的経緯を知らずに簡単に台湾人が親日的だと決め付ける歴史認識は大間違いだと思う。

  大戦後、国民政府の陳儀を長官とする台湾省行政長官公署が、日本の台湾総督府に取って代わって台湾の統治機構となった。ところが、陳儀政府は植民地支配から解放された台湾人の期待に応えず、経済の破綻・官僚の腐敗および本省人への差別が台湾人の不満を爆発させ、1947年2月大規模な住民反乱の二・二八事件が起こった。この反乱は十日間ぐらい続いたが、中国からの増援部隊が到着すると直ちに鎮圧された。統治側の弾圧過程において無差別虐殺が行われ、台湾社会のエリート層に壊滅的な打撃を与えた。さらに1949年蒋介石政権が内戦に敗れて台湾へ逃げ込んだ後、戒厳令を敷いて「アカ狩り」の白色テロルを展開した。その後、抑圧された台湾人は日本人と中国人の統治者交替をひそかに「犬が去り豚が来た」とたとえ、国府の統治は日本の植民地支配よりひどいと厳しく批判してきた。台湾人の外省人への憎悪感で引き立てられた異様な親日感情が両者一体となり歴史の表面に残されたため、「親日的」という形で常に国民党政権を批判する歴史認識があらわれたのである。つまり台湾人の外省人支配に対する反感のなかにこそ、日本統治時代を美化させる要素が含まれていたことを見逃してはいけない。他方で台湾人は、「日本時代のほうがまだましだ」と日本統治時代を懐かしむことに対して、国民党政府はいっそう反日感情を煽るような教育を行った。このような対立は歴史の記憶化をめぐる悲劇といえるだろう。しかしこのような大戦後台湾人の対日感情の展開によって、台湾人を二等国民として差別扱いした日本の植民地支配の過去が「国府政権の腐敗」で塗りつぶされ、無罪放免となることはないと思う。同様に、八田與一を今でも慕う台湾農民の「民情」を利用し、植民地支配を肯定することも許される行為ではない。

  ところが実際には、こうした「親日的」台湾人の言動を参照例として植民地支配の罪悪を隠蔽する日本型の歴史修正主義が流行っているようだ。近年、一部の日本人は台湾の親日派と出会い、「植民地時代に法治が確立された」という賛辞に励まされ、日本人としてのアイデンティティを再確認しようとしている。このような日本の右翼が現在も「親台派」の根幹となっている。親台派の日本人の歴史―現在認識は、主に「台湾の近代化は日本が行ったのだ、それを理解した台湾人が親日になっている」、そして「野蛮な中国の脅威に晒される弱い台湾を守るべきだ」という二つの考え方をベースとしている。たとえば『「帝国の知」の喪失 戦後日本・再考 東アジアの現地から』(展転社、1999年)を著した鈴木満男氏は、年配の台湾人の記憶に「日本時代」という楽園伝説があったと指摘し、戦後史にまでも日本と台湾の共通点を探し出しそうとしている。彼は1997年に台北で二・二八事件五十周年国際会議に参加した後、次のような感想を述べている。「台湾本省人の戦後体験は日本人の戦後体験と基本的に重なる。それは異民族の軍隊によって占領され、自らの戦前・戦中を忘れるべく洗脳を加えられた体験だった。」一見、台湾の戦後史に同情的な見方を示しているが、実際にはアメリカ占領軍に押し付けられた「戦後民主主義」を否定しようとするところに本来の意図がある。このような日本型の歴史修正主義は日本の親台派に見られる一つの典型だと言えよう。

  台湾人の思いやりと善意を利用し、植民地支配の過去を美化しようとするという親台派の言説は、現在の軍事情勢において台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もう一つの親台派の主張につながっている。このタイプの人は「台湾海峡は我が国の<生命線>である。この海峡が封鎖、または一国によって気ままに管轄されるようになれば、わが国への石油をはじめとする重要物資の流入は制限され、今以上に<朝貢外交>を強いられ、経済的負担が増大するようになろう」という考え方を持っている(『月刊日本』2000年5月、13頁)。このような危惧を持っている日本人はシーレーン防衛を念頭において台湾の軍事防衛のことにさまざまな意見を述べている。元自衛官を含む少数の日本民間人が来台し、「日台防衛論壇(フォーラム)」という会合で台湾側と盛んに交流を行っている。このタイプの親台派の論調は日本ナショナリズムを核とし、その底流として中国蔑視と警戒感、そして日本が台湾の「先輩」であるという優越感が潜んでいることが、やはり見え隠れしている。

  このような近年の親台派と親日派の活動を見て、彼らの主張を聞いていると、あたかも台日関係はきわめて親密になっているように思われるが、実際にはそうではない。今回の台湾総統選挙で取材に来た日本人記者野村進は、総統選のキャンペーンや記者会見で「候補者やその陣営から<アメリカ>という名前は出ても、<日本>の国名がついぞ聞かれなかった」と言い、また選挙戦の取材に訪れた記者は日本人が最多であったにもかかわらず、「どの候補者も<日本>を口にせず、日本の存在感が不自然なほど薄い」との落胆ぶりを表した(野村進「アジアン・ビート」2000年5月7日『読売新聞』)。

  実のところ、台日間の外交面の関係はもともと疎遠だった。また現在のような親台派と親日派が存在するかぎり、台日間の政治面の関係は緊密化しえないと思う。なぜなら、まず台湾の世代間の歴史認識には大きな落差があり、年配の「親日的」歴史認識が引き継がれる可能性はない。総統選挙終了後の台湾においては、政権交替が実現するとともに世代交替もかなり進んでいる。日本型の歴史修正主義のような植民地時代の偽善的解釈は若い世代の台湾人に受け入れられるはずがないし、強いニッポンを目指して台湾を日本の傘下に収めようとする軍事戦略も、国際社会からの支持を得られないだろう。特に植民地支配の歴史経験を国際協力のモデルと解釈するところからは、絶対に日台間の親和関係を築くことができない。そのため台日の新しい関係を発展させようとするならば、今の親台派と親日派の歴史認識および現状認識を越えて新たな枠組みで台日関係を再構築しなければならないであろう。


何義麟(か・ぎりん)1962年台湾・花蓮生まれ。東京大学大学院博士課程修了。台北師範学院助教授。東アジア近現代史。主な論文に「台湾人の政治社会と二二八事件−脱植民地と国民統合の葛藤」「『国語』の転換をめぐる台湾人エスニシティの政治化−戦後台湾における言語紛争の一考察」など。
 
 

本論文は、著者及び出版社の了解の上、以下から転載した。 

『IMPACTION インパクション 120号 』(特集 台湾)インパクト出版会、2000年7月発行、93-98ページ

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