元海軍第61航空廠、麻豆  


 
 
 

選抜試験に合格した少年工は、台南近くの岡山の海軍第61航空廠に集結し、日本に向けた船が出るのを待った。 それまでは、ここで団体生活を行い、訓練に励んだ。

 

左の写真は、第61航空廠のパイロットの宿舎だった建物。 現在では中華民国空軍の所有となっている。

当時、岡山で二階建ての建物はこれだけだったとのこと。

上記、宿舎の近くには食堂があり、若きパイロットたちは、出撃前夜には、ここで宴会を行い、中庭ではダンスを踊ったとのことである。 「そんな時代にダンスの相手がいたのですか」と質問したら、「挺身隊の女学生がたくさんいた」とのことでした。

岡山から台南県麻豆に向かった。 このあたりは、早くから福健省からの移民が多く、台湾の中でも早くから開けたところである。 当時の主要産業は鹿の皮、樟脳、砂糖で、中国大陸に運搬した帰りの船で建築資材を持ち帰り、写真のような福健省風の家を建てたとのことである。 この家は築後150年経過している。 麻豆出身で慶応大学に留学し、日本女性と結婚したが、夭折した詩人、林 修二(本名:林 永修)の実家もこの近くの同様な家である。

この地方も少年工を輩出した所で、元少年工の方々から大歓迎を受けた。

なお、麻豆(マトウ)の地名は、現在は消滅してしまった平地に住んでいた原住民(平捕族)であるシロヤ族のコトバ(発音)に由来するとのことである。

 


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