2001年12月12日号

ベトナム旅行記


 暇ができましたのでベトナム旅行に行ってきました。 物騒な世の中ですので、テロの対象になりにくい航空路線として選んだ末、ベトナムに決めました。

ベトナム概況

 長く続いた戦乱で世界でもっとも貧しい国々の一つに数えられ、「等しく貧しさを分かち合う」と言われた状況からの脱出が成功しつつある。 現在は、市場解放を取り入れた「ドイモイ政策」が効を奏しつつあり、政府により、「なれる人から先に豊かになればよい」との見解が出ている。

 ガイドに聞いたところによると、ホー・チミンでの平均的な給料は日本円で2万円、大学進学率は20〜25%とのことであった。 これらの数字は数年前に発行された書物に書いてある数字よりもかなり大きく、市場解放が一番進んでいるホー・チミンにおける数字として、あるいは、ガイドの見栄により少し大きい数字を言った、として割引いて考えても、それを上回る成長があるのではないだろうか。

 市場開放に伴い外国製品や資本の流入が多くなっているので、街では韓国、台湾、日本の会社の看板をよく見かけた。 町中はバイクの洪水で、信号も少なく歩行者が横断するのは大変である。 ホンダ製の100ccのバイクが約19万円とのことである。 自動車はまだ少なく、よって、交通渋滞はない。 タクシーの暴利さえなければ、気楽にタクシーで観光できるのだが・・・・。 東南アジアの国々でよく言われている日本の中古車が「味の素」などと日本語で書かれたまま走っている様子を想像したが、意外に少なかった。 右ハンドル車の輸入が制限されているせかも知れない。 逆に左ハンドルの韓国車の中古が目に付き、「良才(ヤンジェ)行き」とハングルで表示されたままのバスを見かけた。 世界で中古車を輸出する国(それだけ国内の車の供給が潤沢な国)は日本、韓国、アメリカの3カ国しかないと聞いたことが、頷ける。

日本語、韓国語との類似点 

 

統一会堂(旧大統領府)

 1972年にアメリカ軍が撤退後も南ベトナム政権は持ちこたえていたが、1975年、解放軍と国軍兵士の反乱勢力によりサイゴンは陥落した。 時の大統領は屋上からヘリコプターでアメリカ大使館に逃れ、国外に脱出した。 このとき長かったベトナム戦争が終わった。 現在では「統一会堂」と命名され、国際会議や外国要人の接待などに使われている。

 内部にはラジオの放送局、軍隊の作戦司令部も設置されており、南ベトナム政府軍の中枢であった。 家族の住居ももうけられており、大統領の贅沢な暮らしぶりが想像された。


中央郵便局

 19世紀末のフランス植民地時代に建設された。 現在も郵便局として使われている。  サイゴンは大きな戦闘もなく、歴史的な建物がよく保存されている。


クチトンネル

 ホー・チミンの西方約50Kmにある「クチトンネル」。 総延長250kmにも及ぶ地下都市で、ベトコンはこの地下都市に隠れ、神出鬼没でアメリカ軍を悩ませた。 中は狭いトンネルで結ばれ、万一アメリカ軍に発見されても体格が大きいアメリカ人は奥深くまで進入できなかった。 中には食堂、病院、会議室、武器製造所まである。 アメリカ軍のキャンプは近いところでは20kmくらいしか離れておらず、これだけ近いところからの近代兵器による攻撃も効を奏しなかったのもうなずける。 周りの木が細いのに注目。 当時は枯れ葉剤で枯れ尽くされていたが、30年間でここまで育ったとのこと。


メコン河の中之島にて

 ホー・チミン南部はメコン河がもたらす肥沃な平野となっている。 車で約2時間のミトー市から観光船に乗り中之島にある果樹園を訪問した。 ドリアンをはじめとする数多くの果実が収穫されている。 このあたりも戦禍が大きかったとのことである。 メコン河はこのあたりでは川幅が3kmもあり、漁業も盛んとのことである。 


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