1997年12月12日号
地域対立

大統領選挙が近づいて、全羅道出身の有力候補の地域別得票予想に関連し、 地域対立についての話題が再び盛んになってきているように思います。
全羅道はご承知のように7世紀半ばに新羅に滅ぼされるまでは百済と呼ばれ日本と友好関係を結んでおり、 「任那(ミマナ)日本府」と言われる駐在員事務所にあたるものまで設置されていました。 百済滅亡以降、「敗戦国」として過酷な歴史があったのは想像にかたくないですが、 今から1000年以上も前のことが、これだけ発達した現在の韓国でも「差別」と言う形で残っているのが不思議で、 同僚に聞いてみました。 以下、忠清道出身の同僚の回答です。

確かに歴史的なものがあるのは事実ではあるが、日帝時代、朝鮮動乱時代を経て、 ほとんど差別は消滅した。 しかし、クーデターで政界に乗り出し、その後、 選挙で選ばれた朴大統領は慶尚道の亀尾(グミ)出身であり、政府要人を同郷の人で固めてしまった。 この時代の政財界の関係は、今となっては詳細がわからないが、韓国経済がテイクオフした時期であり、 亀尾の大工業団地、浦項製鉄所、京釜高速道路、多くの大財閥など、慶尚道のみが経済発展した。

ところが、朴大統領が最初に選出された選挙では、むしろ全羅道からの票が多く、 結果は第2位の金大中候補との間で60万票差の大接戦であった(脚注参照)。 この60万と言う数は当時の軍隊の数であり、仮にその数字を差し引けば(クーデターの人ですから、 ほとんどの軍人は朴候補に投票したと考えられる)、一般人だけの結果としては金候補と五分、五分であったと考えられる。 しかも支持基盤として全羅道からの票が多かったことを考えると、その後の人事、政策で全羅道が考慮されなかったことに大きな不満を持ったのは当然だろう。 朴大統領が暗殺された後、全大統領、盧大統領も「軍人、慶尚道」路線を引き継いだ。 このような状況の中で、ますます全羅道人の不満は高まると同時に、その他の人たちからの、 消えかかっていた「全羅道差別」が逆宣伝、あるいはそれにとどまらず就職差別などの形で噴出してしまったのである。

心ある人たちはこのようなことは知っており、地域対立がいかに国家的な損失であるか知っている。 軍人大統領時代を過ごした年配者の中には地域差別を今でも言っているが、若い年代になるにつれて、 そのような意識は減ってきている。 今さら騒ぎ過ぎて、逆戻りすることを恐れる。


確かにこちらに住んでいますと、彼の言っていることは的を得ているように思います。 中日ドラゴンズの宣銅烈投手は韓国野球界の大スターで「全羅道出身だからダメ」と言うような話は聞いたことがないし、 「南行列車(全羅道 木浦行の列車の意味)」と言う歌が大流行するのですから。


12月の目次に戻る みんなの落書き帳に進む



脚注

私(呉 光朝)が調べたところ、朴大統領が選出された最初の選挙(’63年10月)での対立候補は、 クーデター当時大統領だったユン・ポソン氏で、票差は15万票であった。
金大中氏と接戦したのは、その後の1971年の大統領選挙であり、 票差は95万票であった。 従って、私の同僚の思い違いが入っている模様。

彼の思い違いがが入っているにせよ、彼が言いたかった、作られた(最拡大された) 地域対立と言う趣旨は間違いが無いところであろう。

本文に戻る