2・28事件(台湾、その6)
韓国に比べて台湾人の反日感情が、”日帝時代が韓国よりも長かったのにかかわらず”、少ない理由の一つに2・28事件が上げられます。
11月1日号の「台湾雑感」で紹介した、ある台湾人(以後、A氏とします。 約65歳)が語った内容を紹介します。 この会話内容は、今年の1月に私が韓国人2人と一緒に出張した時に、A氏が我々3人を前に英語で説明したものです。
戦後、日本人が去って、代わりに「母国(中華民国)」の軍隊が台湾にやってきた。 我々、台湾人は開放の喜びに沸き返り、歓迎の準備をして待ち構えた。
実際に上陸し、我々の前を行進するのを初めて見たとき、驚いた。 乱れた行列、みすぼらしい軍服、軍靴。 見慣れていた日本軍とは全く違い、レベルが低いことに気が付いた。しばらくすると、我々は彼らとも言葉が通じないことがわかった(台湾語と北京語?)。
これを聞いた同僚の韓国人は、ただひと言「Interesting」としか言えませんでした。
何か言いたかったようですが、言えなかったのでしょう。
以後は私が読んだ本からの記述です。
進駐してきた軍隊、警察、政府関係者は日本人が住んでいた家などに住み着き、要職を押さえ、 本省人を差別しだしたのです。 「こんなことだったら日帝時代の方が良かった」と、言う声が巷にあふれたのです。 そんな混乱時代が2年くらい続き、本省人の不満が蓄積されていったのです。
1947年2月28日、専売局の道端でタバコ売って細々と生活していた本省人のお婆さんが警察に逮捕されました。 違法ではあるのでしょうが、混乱の時代ですし、お婆さんの生計の道を取り上げるのはあまりにも杓子定規でしょう。 逮捕のニュースは口コミですぐに台北中に伝わり、不満のエネルギーが蓄積していた群衆の自然発生的な暴動が始まったのです。 当局側は武器を持っているのですが、本省人の方が数が多いので、次第に追い詰められて行ったのです。 暴徒は外省人を見つけると、手当たり次第に暴行し、殺害しました。 この時、外省人の見分け方は簡単です。 「日本語が喋れるかどうか」です。 暴動は2〜3日の内に台中、台南、高雄まで伝わりました。
当局はたまりかねて、ラジオで「差別を無くすための改善策を出す」と言い、暴徒を油断させ、時間引き延ばしを図る一方、極秘に大陸からの援軍を要請していたのです。
数日後、大陸の軍隊の船が基隆港に到着し、上陸した軍隊は無差別殺戮を繰り返し、
台北に進軍したのです。 このとき、基隆港の海は投げ捨てられた死体で赤く染まったとのことです。
台北を奪取した、当局側は、今度は全土の鎮圧で、徹底的な「不満分子狩り」を始めたのです。 「誰が不満分子か」なかなか判らないものです。 そこで、インテリや会社経営者などが徹底的に粛正されました。 現在の総統(大統領にあたる)、李登輝 氏も検挙の対象に入っていたのですが(京都大学卒のインテリ)、いち早く危険を察した知人が匿って、難を逃れたそうです。 現在、台湾の有名人のある人は「一緒に昼食をとっているときに軍人が入って来て、 父が連れて行かれた。 それが父を見た最後です」と、ある本で書いていました。
このような異常事態は2か月くらい続きましたが、この間に殺された人は数万人(記憶が不確か)と、 言われ、その数は日帝時代の50年間に日本人に殺された台湾人の数より多いのです。
2・28事件は国民党の独裁時代には、語ることがタブーとされていました。
また、よその国の事でも熱心に研究する日本人研究者も、これに関しては取材が難しかったせいか、少なかったようです
しかし、台湾にも野党ができ、歴史の見直しの機運の高まりもあり、
2〜3年前に国民党の総裁である李登輝氏から「事件の調査」と「国民に対する謝罪」が正式に述べられたのです。
2年ほど前に総統府の近くの公園には2・28記念碑が建設されました。 50年前に、この付近は総統府に立てこもる当局が暴徒に対して機関銃で応戦していたところですが、 今は静かな公園です。
それにしても、総統(大統領)とは大変な仕事ですね。 自分が殺されそうになった事件であるにもかかわらず、 国の代表として、国民に謝らなければならないのですから。