1997年8月16日号

李 正馥さんとの雑談


「椎名さんに会いたい」の著者、李 正馥さんが、先日、私のアパートに遊びに来られて雑談しました。 あの文章から想像すると恐い人のように思われるかも知れませんが、優しいパラポチです。 背が高く、背筋をピンと伸ばしてしっかり歩く姿は、とても年齢には見えませんし、 軍国少年だったころを偲ばせるものがあります。
いろいろな話をしましたが、今日は、韓国空軍で飛行機整備に従事していたときのこぼれ話を紹介します。 朝鮮動乱当時の話です。


遊覧飛行
朝鮮動乱のさなかではあったが、旧正月は出動もなく、軍隊内の慰安として、映画を上映していた。 映画は忘れもしない「シェーン」だった。 飛行機が離陸する音が聞こえた。 その日は飛行計画が無いのにおかしいと思った。 映画が終わって外に出ると、大騒ぎだった。 滑走路に積もった雪の上にきれいにタイヤの痕が残っており、確かに誰か離陸したようだ。 そして、2人乗りの飛行機が近くの山に激突、炎上して、2人とも死亡していた。 離陸許可を出した人も飛行命令を出した人もいない。 遺体は損傷が激しいため、しかたなく現場付近の土を木の箱に入れ遺族に渡した。 真相はわからないが、正月気分で遊覧飛行をやっていたのではないか?
それまでの軍隊内の備品が減っていたことや、経理計算が合わない責任は、 全部、彼らがやったことにされ、奇麗になった。

故郷に錦をかざれず
飛行機野郎の間では「あいつは落ちるよ」とか「危ない」と言うことは禁句です。 何故かそういう言葉が意外と当たるそうです。

部隊に新しいパイロット教習生が配属されてきた。 彼は旧日本軍のパイロット養成機関の最後の学年の男だった。 なんとなくおかしな雰囲気で、食堂で雑談のとき、仲間と 「あいつ、おかしくないか」と話し合っていた。 それから1週間もしないうちに、教官が同乗する飛行訓練が終わり、いよいよ始めての単独飛行になった。 単独飛行を祝って仲間とパーティーを行なった。 離陸後しばらくして、彼の故郷の警察から部隊に電話がかかってきた。 故郷の実家付近で墜落、死亡したとのことである。

真相は;
実家の上まで飛んできて、予め連絡してあったのか、父親が出てきた。 飛行機から大きな包(おみやげ?)を投下したら、父親の頭に当たってしまった。 心配して、近くを低空で旋回している内に大きな木に翼を引っかけ、自分も墜落してしまった。 記念すべき単独飛行初日に、父親と一緒に自分も死んでしまったことになる。 李さんたちは1週間前の自分達の会話が当たってしまったことを不思議に思った。

意地悪パイロットに意地悪する
どんな人々の集まりにも意地悪な人はいるものです。 特に華やかなパイロットは裏方の整備士を大切にしなければならないのに、 中にはわかっていない人もいるようです。 そこで李さん達が行なった反撃方法は;
いつも意地悪するパイロットが機乗するとき、「今日はこの飛行機しか空いてません。 他の飛行機は全て上官が予約しており、特別武装がしてあるのでダメです。 この飛行機は少し振動が出ますが、問題ありません」と言った。 実際には振動なんか無いのです。 振動を放置するようでは整備不良で、そんな飛行機は空中で故障や分解するかもしれず、 飛ばしてはいけないのです。 意地悪パイロットはしかたなく、その飛行機で飛んで行きました。 ところが帰ってきたら顔面蒼白です。 「振動が出る」と暗示をかけられただけで、 いつトラブルが発生するかと気が気で無かったのでしょう。 よほど恐かったのでしょう、それから数日間は体調不良を理由に飛ばなかったそうです。 李さんの「頭脳プレー」は大成功だったようです。


戦争中の軍隊といえども、そこはいろいろな人が集まっているところであり、さまざまな人間模様があったようです。
ガアムでのKAL機墜落もあり、飛行機の専門家から内部の話を聞かせてもらい興味深かったです。 私自身も本物のB747のフライトシュミレーターに乗ったことがあり、興味を持っています。 今回のグアムでは、着陸誘導装置が停止していることは、空港当局から予めアナウンスされており、 グライドスロープのサポート無しの悪天候の中で着陸しなければならないことの難しさは、素人なりに理解しています。 もし、上記、意地悪パイロットと同じくらいの細かい神経が空港当局にあれば、 着陸誘導装置の故障を長期間放置しなかったでしょうし、 事故機のパイロットも同じで、無理をせずに近くのサイパンに避難することが出来なかったのかと残念です (結果論でしかないですが....)。


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