1997年7月28日号
「椎名さんに会いたい」雑感
亡くなった私の父親、母親も李 正馥さんと同じような時代を生きてきたので、子供のときに聞いた話を書いてみます。
聞いた話なので、李さんの直筆ほどの迫力がないことや、聞き間違いがあるかも知れませんが、ご容赦ください。
また、思い付くままに関連事項も付記します。
- 父親の話
- 陸軍に所属し満州で働いていた。
「そろばん」が得意だったので資材管理部門に配属され、一回も実戦で鉄砲を撃ったことがなかったし、
資材運搬用のトラックを運転するため運転技術も覚えた(当時は自動車の運転は特殊技術だった。
韓国では今でも運転手のことを「技師(キサ)」と言うのはそのなごりか?)。
特殊な部門なので兵隊同志の争いからも無縁で暴力ざたにはほとんど巻き込まれなかった。
しかし、一般の兵隊(戦闘要員)の間では古参兵と新兵の間のシゴキは激しかった。
終戦後、日本に帰ってくる復員船上で、戦地であまりにもひどいことをした古参兵が、
それまでイジメられていた兵隊達によって、船のボイラーにほうりこまれたのを目撃した
(武装解除になり、もはや階級は関係無かった)。 止める者は誰もいなかった。
陸軍内では日本人の間でも暴力が横行していたようである。
- 母親の話
- ちょうど椎名さんと同じ年代で、学校の代わりに「愛知時計株式会社」に動員され、
飛行機の部品を作っていた(椎名さんが働いていた愛知航空機と愛知時計は兄弟会社。
ともに大勢の女性、少年を集めて軍用機の生産に躍起となっていた)。
名古屋大空襲の時、米軍は軍需工場を良く知っていて工場に大量の爆弾を落とした。
防空豪に避難していたので命は助かった。
私(呉 光朝)は母親から「年少工員」の話は聞いたことがない。
愛知時計にはいなかったのか、「思い出すのもいや」で話さなかったのか?
- 台湾少年の場合
- 厚木飛行場(現在、米海軍と自衛隊が共用している)の近くに軍用機の製造工場があり、
台湾の少年達が連れてこられ働いていた。
戦後、大半の少年は帰国したが、余りにも過酷な労働で日本で亡くなった方もいた。
彼らは飛行場の近くのお寺に葬られている。
台湾少年に対しても暴虐があったのだろうか?
毎年夏になると一緒に働いた日本人と台湾人が慰霊を兼ねて飛行場の近くで同窓会をやっている。
- 日本人少年の場合
- 私(呉 光朝)の中学校時代の先生(李さんと同じ位の年齢か?)の話。
学校に行かずに飛行機部品製造工場に出勤した。 操縦桿の部品を作っていた。
製造数量第1主義で、多少動きが悪いものでも「検査合格」として次工程に流した。
あんな操縦桿で飛行機が正しく飛んだのだろうか?
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