1997年7月10日号
西便制、ある韓国人の感想


このホ−ムペ−ジを熱心に見ていてくださる「女性愛読者」さんから、 7月3日号に掲載した「西便制」についての感想をメ−ルにていただきました。

日本人である私はこの映画には感動したのですが、韓国人である「女性愛読者」さんも感動したそうです。 ただし、感動のみならず、何らかの「思い」も持たれたとのことです。
もともと、私あての個人メ−ルではありますが、 このホ−ムペ−ジを見て下さる皆さんにも見ていただきたいと思い、 ご本人の了解を得ましたので公開します。


                           呉 光朝


呉光朝様

おはようございます。東京は朝からかなり暑く、 今日は37度まで気温が上がるそうです。 さて、先日いただきましたメールですが・・・、


呉> ところで、この映画には大変感動したのですが、韓国人から見て

呉> もやはり感動するものなのでしょうか。 一度、感想をお聞かせ

呉> いただけると、嬉しいのですが....

私の場合、西便制を見た感想はとても複雑です。この映画には 色々思うことがあるため長くなってしまいそうですが、述べてみます。

私は韓国のレンタルビデオと日本の映画館で見ましたが、とても 感動しました。父親を演じていた演劇畑出身の金ミョンゴンは 昔から大ファンの力量ある役者さんですし、ストーリー展開は 単純なのに人を引き込む感じがあり、数日映画の中の歌声が 耳に残るほどでした。
特に、ビデオでなくスクリーンで見た時の映像の美しさと カメラワークは素晴らしかったです。親子3人で長い一本道を アリランを歌って歩くロングカットのシーンは、今でも目に焼き付いて いるほど印象的な場面です。

ただ、感動をしておきながらも、なんか違うんじゃないかという 気が尾を引いてならないといいますか・・・。
呉さんも書いてらしたように、映画ではハンを乗り越えるということが 語られたり、実際娘のハンが芸を深めていく源になっていたりするため、 映画の感動を引き出すものとして上手く使われている気はしますが、 私には似て非なるものに思えてしょうがないんです。
具体的には、ハンの捉え方に対する疑問です。

芸を深めるために娘の目を見えないようにしてハンを深めるのは、 ハンを体で知る朝鮮の民衆の情緒とは違うのではないか、 民衆自身は「生きること」自体の方にもっと貪欲で、したたかでは なかったのか、というのが私の考えです。
ハンは長い歴史(個人や集団の)の中で埃のように積み重なり 生み出されてしまう情緒で、それから容易に解き放されることは 難しいため、逆説的に希望の物語を生む。人々は希望としてのその「ハンプリ」 (ハンを解き放すこと)の物語から、苦難を耐え抜く力を得て 慰められる。だからハンは恨みや憎悪の感情を含まないわけでは ないが、希望につながるものであり、生きるエネルギーとなっていく。 それが、朝鮮民族の普遍的情緒がハンだと言い表し、その 情緒を通して語る時の朝鮮民衆の生き方のストーリーでは ないかと思えるんです。 (だからハンを単なる恨みとは訳せないわけです)。

こういう考え方から映画を見ますと、芸人が娘の目を見えなくして までも芸にこだわるやり方は、朝鮮民族のハンだというより、 美学としてはなんだか日本的なものに近いような気がしました。 「これはこれでいいけど、ハンの物語とは言いたくないよね」と・・・。
ただ私自身も、見る時は違うと感じながらも、一方では胸にぐっと 迫るものを感じたのは事実でして、日本の山田洋次(寅さんの 監督)がそうであるように、林権澤監督も韓国人の涙のツボを ちゃんと知っていて、そこを上手におさえられたという感じがします。 ですから、この映画は上手・下手でいうと非常に上手だと思えても、 好きか嫌いかでいうと、私はあまり好きにはなれなかったです。

ただ、こういう見方はとても少数ですし、一般的には多くの人が 深く感動し、高い評価を与えていました。 以前から西便制に対しては異議ありという状態だったところへ、 「感想を・・」とおっしゃったので、真面目に長々と書いてしまい ました。説明がうまくできず、分かりにくい長文ですみません。 ハンへの理解など、多分に主観的なところがあると思いますので、 韓国にいらっしゃる間、いろんな理解を深めていかれる上での 一つの材料くらいに軽くとっていただければ幸いです。 落書き帳への書き込みをする時は、もっと軽やかにいきますので。

女性愛読者


7月の目次に戻る みんなの落書き帳に進む