1997年5月15日号

友人のLさん


もう30年以上お付き合いしている韓国人の友人であるLさんを紹介します。
私の顔にまだニキビがあったころ、初めて話をした外国人と言ってもいいでしょう(日本語でですが)。 それから30年以上の月日が流れて、私はソウル駐在となり、 1月に2回くらいは会うことができるようになりました。

彼のことを書くと、どうしても感情移入になってしまいますが、 それを排するように務めます。 読む人にはこういった韓国人もいるのだということを判っていただき、 何を感じるかは読む人の気持に委ねたいと思います。

年齢:数えで69歳(彼が日本語で話す時は「昭和4年生まれ」と言います)

出生地:忠清道 群山(現在、桜並木が有名なところです)

日植民地時代:創始改名で日本名を名乗り、群山の学校を卒業後、 少年兵として日本軍に参加。 最初の勤務地は名古屋。
「神州不滅」を信じて疑わない忠実な少年兵であったが、 半島出身であるというだけの理由で、日本兵から理不尽な目に合わされたこと多数あり。
そんな目に合ながらも、近所の母子家庭で(母親と20歳前後の娘2人、 その家に何故、男性がいなかったのか不明。 軍人の家庭か?)、 非番の日には自分の家族のように良くしてもらい、風呂に入れてもらったり、 伊勢神宮への旅行に連れていってもらったことあり。

その後、横須賀を経て、広島県の呉に勤務。 少年兵であるため、上官の洗濯物などを良くやらされる。 今でも洗濯が得意なので、冗談で私の洗濯をして上げると言います。 訓練から帰ってきた飛行機のガソリンを抜いて、 それで洗濯すると今で言うドライクリ−ニングになって、奇麗に洗濯できたそうです。

1945年8月6日、勤務地の呉からキノコ雲を見た。 広島−呉は80Km離れているので、さいわい身体にはダメ−ジなし。

戦後の生活

日本の敗戦後、日本軍は35円の退職金をくれた (現在の貨幣価値と比べて5000倍から1万倍くらい違うので、 今の感覚では20万から30万円くらいでしょうか)。 これだけあれば2・3か月は生活できるので、 生活しながら韓国に帰るチャンスをうかがう。
密航船を見つけ、退職金のかなりの部分を払って乗り込み、 釜山付近に到着。 これでやっと日本語を話さずに済むと思ったら、そこは日本だった。 船はまた日本に戻ってしまっていた。 だまされたことに気付く。
同じことをもう一回経験する(また、だまされた)。 お金が底をつきかけていたが、最後のチャンスで密航船に賭ける。 3回目にして無事、釜山付近に到着したわけである。

帰国後、韓国の軍隊に入り、朝鮮動乱に参加。 生涯に2回も戦争に参加したわけである。
その後、高麗大学を卒業し、高等学校の教師、政府の研究機関で働き、 定年後は得意の日本語を使って翻訳の仕事をしている。


彼の言葉

今でも、日本にいたころの理不尽な仕打ちの夢を見て、うなされて目覚めることがある。 一方、親切にしてくれた母子家庭(椎名さんと言う名前を覚えている)のことも忘れられない。 もう一度、お会いしてお礼を言いたくて、 名古屋のCBC放送で「人探し」の放送をしてもらったが、手がかりはつかめていない。

日本人教師から「発音が悪い」と殴られながら勉強した日本語のおかげで現在の生活が支えられていると思うと、 人間の人生とはつくづく不思議なものだと思う。


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