1997年4月29日号

戦争記念館(その2)


昨日に続いて戦争記念館(その2)です。

17世紀から日本統治時代
この時代は韓国が直接関与した戦争が少なく、 戦争自体の説明よりも武器の展示が中心でした。
江戸時代の日本の鎧・兜がありましたし、私は始めて見たのですが、 38式歩兵銃、ナンブ式ピストルの本物がありました。 38式歩兵銃は、 ゴルゴ13も使っているアーマライトM16(現代の所に展示してある)と比べると、 かなり大型で機動性に欠けると思いました。 この時代は機動性よりも射程距離を重視し、火薬の性能も低く、 銃身が長くなってしまったのでしょう。 子供の頃に読んだ本には「揚子江の河口で、 始めて対岸まで弾丸が到達した銃」と解説してあったのを覚えています。

戦争では無いですが、 ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した安 重根についてはかなりスペースをさいて展示してあり、 胸像や掛軸などがおいてありました。
この人に関しては前回紹介した李 瞬臣将軍と共に「チェックリスト・アイテム」になっており、 こちらの人とつき合うためには知っていないと話がチグハグになります。

朝鮮動乱
こちらの人は韓国戦争と呼んでいますので、 充分注意しなければなりません。

この関係の展示は記念館で最大のハイライトであり、 実際に使われた飛行機、武器、説明パネルや実写フィルムの展示が豊富です。

1950年6月25日(日曜日)の早朝に突然、 38度線を突破した北朝鮮軍はソ連製T34戦車を全面に押しだし、 破竹の勢いで進撃し、3日後にはソウルが陥落しました。 当時における地上戦での戦車の威力をまざまざと示したのです。

時の李 承晩政府はたまらず、ソウル南の漢江の橋を爆破して南に後退したのですが、 まだ一般市民がソウル市内にたくさん残っていたのです。 このことは政府に対する不信感のみならず、 残った人と逃げた人との間で後々になっても心の中に深い傷跡を残したそうです。

全部爆破したつもりの漢江の橋だったのですが、 貨物鉄道用の橋だけは爆破してなくて、T34戦車はここを渡って南進したようで、 実写フィルムでその場面を放映してました。 李 承晩政府のあわてぶりがわかります。

こちらの友人に聞いた話ですが、 ソウルに残された婦人の中には北朝鮮軍兵士に乳房を抉られたひともいたそうです。 同じ民族が争うことの残酷さを表わす一例でしょう。

その後、マッカサー元帥による仁川上陸作戦が成功し、ソウルは奪回され、 一旦は鴨緑江付近まで戦線が北上するのですが、 今度は当時、建国してから間もない中華人民共和国の義勇軍が参戦し、 再びソウルは陥落します。

義勇軍の戦術は人海戦術と言われるもので、 圧倒的多数の兵士が一団となって前を歩く兵士を「楯」にして、撃たれても、 撃たれても次々と新しい「楯」を使って進撃するのです。 当然、兵士の消耗が激しいのですが、 圧倒的な数の兵士を持っているときは最後には勝つのです。
こんなことが20世紀の世の中で(私はこの時、すでに生まれていた)しかも、 現在、私が住んでいる朝鮮半島で行なわれたとは驚き以外の何物でもありません。

記念館には見あたりませんでしたが、私が子供の頃、祖父から聞いた話で、 こちらの友人にも確認した話ですが、 義勇軍にたまりかねたマッカーサー元帥は原爆の使用 を提案しました。 当時のアメリカのトルーマン大統領はこの提案を棄却し、 マッカーサーを解任しました。

歴史に「IF」はありませんが、このとき原爆が使われていたら、 確実に第3次世界大戦になっていたと思うと、ゾッとするものがあります。 今頃は「核の冬」で人類滅亡の危機に瀕しているのかも知れませんね。

戦争記念館での印象があまりにも強烈だったので、長々と書いています。 それにしても、日本から飛行機でわずか2時間のこの地において、 想像を絶することが起こっていたのですね。 これらの遠因として日本による植民地支配があるのを忘れてはなりません。
日本が支配しなかったらロシアやその他の国の植民地になっていたかもしれないと 言う議論は別にして、現実に日本が植民地にしていたのは事実ですから。


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