1997年4月28日号

戦争記念館(その1)


地下鉄4号線、三角地駅の近くにある「戦争記念館」に行ってきました。 広大な敷地と立派な建物の施設ですが、 日本で売っている観光ガイドブックには書いてないので知りませんでした。 おかげで、ほかの観光地のように日本人だらけと言うことはありませんでした。
なお、各展示の説明はハングルで、一部、英語がありますが、 日本語は入口でもらうパンフレットに日本語版があるだけです。

内容は石器時代の武器である石の矢尻から現在までの、 武器、戦争、国防についての展示です。 あまりにも内容が豊富で全部を紹介できませんので、 気がついたことだけを書きますが、それでも1回に書き切れませんので、 何回かに分けて書きます。

7世紀頃
この頃は「高句麗」、「新羅」、「百済」の三国に分かれて争いを繰り返していましたが、 結構、発掘品が多いようで、馬に着せる鎧までありました。 日本は「聖徳太子」の時代前後で「百済」と仲が良く、 任那日本府(現地事務所?)まで置いていたそうです。
なお、ものの本によると、 この頃の日本の高官で「百済」の女性を妻として迎えた人が結構いたそうですが、 今と同様に、こちらには美人が多かったのでしょうかね。

「百済」の首都(現在の扶餘)が、 「唐」と連合した「新羅」に陥落させられた後、 日本は大軍を送って「百済」復興の援助をしようとしたが、 有名な「白村江の戦い(AD663年)」で大敗してしまい、以後、 日本と朝鮮半島の関係は以前ほどの密接なものではなくなってしまったようです。

この時代の展示物を見ていると、 日本では縄文時代、弥生時代の発掘品は韓国の同じ時代に比べて圧倒的に多いのにくらべ、 逆にこの年代では韓国の発掘品が多いのに対して日本で発掘されるものが少ないのは残念です。

亀甲船
この船は日本でも有名で、私が高校生のときの歴史の教科書に 「世界初の鋼鉄で装甲した軍艦」として載っており、 受験勉強で一所懸命、丸暗記したものでした。

亀甲船は、こちらでは亀を表わす「ゴ・ブック」 と漢語の「船」を表わす「ソン」をつないで「ゴ・ブック・ソン」と呼ばれています。 つまり、「甲」の意味がとれています。

この船はこちらでも大変有名で、 李 瞬臣将軍がこの船団を率いて釜山沖の海戦で豊臣秀吉の日本船団を打ち破り、 一旦はソウル、平壌はおろか、 現在は中国領で、 今でも朝鮮族が住んでいる延吉付近まで侵攻した秀吉軍の援軍と補給路を絶ち、 李氏朝鮮軍を勝利に導いたことは誰でも知っています。

ものの本によると、緒戦の秀吉軍の快進撃は、当時、 世界最大の生産国になっていた日本の鉄砲と、 グループ輪番制の発射方法によりもたらされ、 李氏朝鮮軍はあっけなく後退を余儀なくされたようです。

それにしても、1543年に種子島にもたらされた2丁(でしたよね?) の鉄砲から50年後にはすでに世界最大の生産国になっていたとは驚異ですね。 しかも20世紀でなくて、16世紀の50年ですからね。

でも、新しい技術で勝利した秀吉軍も、 別の新しい技術である亀甲船の前に敗退したことを考えると、 現在の経済社会における世界的な技術競争とも共通していて興味深いですね。

亀甲船の史実については、こちらの人は熱狂的になるようで、 李 瞬臣の胸像の前で、 「イ・スンシンだ。 *****..(言葉が判らないので理解出来ず)」 と興奮気味に話していました。

詳しい図面が残っていないそうですが、 亀甲船の2.5分の1のレプリカ(それでも10m以上ある) の展示や海戦の再現ビデオの放映など、かなりのスペースをさいていました。
見学者には小中学生も多く、こういうものを繰返し見せていると、 大人になってから「日本なんて大したことがない」と、 軍事力を背景にして交渉をすすめたりしないかと心配になりました。

戦争記念館は大規模なので、半日では全部を見ることができませんでした。 後日、改めて行って見たいと思っています。 日本にはこの種の博物館がありませんので、まだ行っていない方には、是非、 行くことを勧めます。


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